NEWガイアの夜明けで紹介された、クラウドファンディングを活用して新規事業を立ち上げるためのスクール「zenschool(ゼンスクール)」 23期新規募集(残席3名)

第175回MMS(2019/1/17収録)「アスレティックトレーナーとしての身体のケアから発展して、心のケアまで手がけるウェルネスデザイナー」前編 Aligne(アライン)一原克裕さん

●ご挨拶と出演者紹介

 三木:本日もマイクロモノづくりストリーミング始まりました。本日はAligne(アライン)さんのほうにお邪魔して、一原さんに色々とお話を伺っていきたいと思います。どうぞよろしくお願いします。

一原:お願いします。

 

●enmonoとの出会いについて

三木:一原さんと我々の出会いがzenschool殿町(https://www.zenschool.jp/tonomachi)で、川崎の殿町というところです。慶應義塾大学の医学部さんとSDM(慶應義塾大学大学院 システムデザイン・マネジメント研究科)がコラボレーションをして医療系の方達と一緒に新しいビジネスを起こしていこうということで昨年第3期と4期が行われまして、そこで一原さんも参加いただいたという経緯になります。どういった経緯でこちらのzenschool殿町にいらっしゃったんですか?

一原:元々は自分で健康ヘルスケアとかスポーツ業界だったのでパーソナルトレーニングとかそういった事業をやってたんですが、できることをひたすら仕事にして色んな仕事をかき集めてみたいな、やりたい仕事っていうよりかはできることを仕事にしていたところがすごい多くて。

宇都宮:それは何年ぐらいですか?

一原:それは2年ぐらいです。

宇都宮:2016年ぐらい?

一原:そうですね。僕が帰国したのは2015年なので、2016年ぐらいから自分でやり始めて、結局周りから見ると何をしている人かよく分からなくて、本当に自分がやりたい「これだ!」と思ったものを情熱を持ってできるのって何だろうっていうことで少し考えようとしていた時に、前野先生の記事とかを拝見する機会が多くありまして、色々探していたところ辿り着いたという。

三木:情熱というところで来たんですか?

一原:そうですね。あとはその時期から瞑想にも毎週通っていたので、zenschoolの禅と対話みたいなところの全部合致した点があって、すごく興味があって行ってみようと。

 

●トレーナー業を目指すきっかけと学生時代

 三木:一原さんの簡単なご経歴をちょっとカメラのほうに(パソコンを)向けていただいて。

一原:元々高校までずっと野球をやっていて、高校野球を目指してやってたんですが、怪我がものすごく多くて、高校時代からトレーナーがいるスポーツに対応できる接骨院に通いながら何とかプレーできてたところがありまして、高校ぐらいまでやるとだいたい将来プロになれるかどうかって意外と自分でどのレベルかって分かってしまったりするので、これでやるよりかは同じように怪我でうまくできなかった人を助けられる立場になりたいっていうので、高校3年の時にそういう…

三木:結構早い段階で決意されたのですね。

一原:そうですね。その時にちょうど今のソフトバンクの監督の工藤公康さんっていう方がまだ現役でバリバリピッチャーで投げてた時代で、筑波大学の先生がその工藤さんのサポートをしていることが案外メディアにたくさん出てたんです。選手トレーナーっていう仕事があるのを分かった時点でそれをやりたいということで、その先生がいらっしゃる筑波に行こうと頑張ってたんですが、結局叶わず早稲田に入ったんです。早稲田に入っても結局トレーナーをやりたいっていうことで、ちょうど浪人中に早稲田もトレーナー学科っていうのがスポーツ科学の中にできたんですがそこも受からず、人間科学部っていう全然別の学部だったのでスポーツは全く関係なくて、トレーナーの知識は部活の中で自分で勉強して、学校はまた別の勉強をしているっていう状況でした。

三木:早い段階で目標を見つけられて良かったですね。

一原:そうですね。やりたいことがはっきりしてたので、早稲田で4年間学生トレーナーっていう形でアメフト部でずっとトレーナー業をやっていました。

宇都宮:専属でですか?

一原:選手と同友で学生トレーナーっていう部員として入って4年間やるっていう形式が多いんです。

宇都宮:それはそういうオファーをしたんですか?

一原:そこは入った後に気づいたんですが、鹿倉二郎さんっていう日本で初めてアメリカのトレーナーの資格を取った方がそこのヘッドトレーナーで25年とか30年やられていて。

宇都宮:すごい幸運ですね。たまたまですか?

一原:たまたまですね。それは中に入ってから気がついて、本当にすごい良い環境で4年間やらせていただいたんです。

三木:卒業後は?

一原:その4年間で本当に仕事にするのか普通に就職をするのかっていうのを見極めようと思ってたので、4年間やってみて自分でそれを仕事にしたいって思って、でもトレーナーで何をしたいっていう具体的なものはなかったんです。卒業した後にいくつか現場を踏んで臨時で色々高校のラグビー部とか国際大会とかサポートとか色々やったんですが、その時に「現場にいるトレーナーが一番できることって何なのか?」って言った時に、予防とか緊急事態が一番の仕事で、それをアメリカのトレーナーが目の前でサササッと何の躊躇もなくできたっていう現場に遭遇を…

三木:たまたまアメリカのトレーナーがそこにいらしたんだ?

一原:そう。日本対アメリカのアメフトの国際親善試合で選手が意識がなくなってバタッと倒れた時に、アメリカの代表チームのトレーナーと監督さんの対応がものすごくテキパキされていて、もう当たり前のように…

三木:練度が高いですね。日本だとあたふたしちゃう。

一原:日本はまだまだそこに対する…

三木:恐怖というかどうしたらいいかみたいな。

一原:そこでの衝撃がものすごくて、僕もこれをできるようになりたいって強く思って、アメリカでそういった安全環境をどうやって作るかを学びたいっていうのと、あとは大学で違う学部にいたので、しっかりしたカリキュラムで勉強したことがないっていう自分の中のちょっとしたコンプレックスもあって、アメリカに大学院留学っていう形で行きました。

三木:そこでまた衝撃的なことがあったんですか?

一原:そうですね。元々安全な環境を作るためにはっていうので特に高校の時に怪我をたくさんしていて、そこにちゃんとケアできる方がいなかったのが日本のどこを見ても同じ状況だなっていう、甲子園とか色んな話を聞いても「壊しちゃって選手生命終わってしまった」とかよく聞く話だと思うんですが、その時のアイデアとしては高校に1人トレーナーを付ければ全てが解決するっていう一番シンプルな考え方だったので、アメリカでそういうことをしているところがないか調べた時に、ハワイのハワイ州が条例で高校に全部付けなくちゃいけないっていう法の力を使って整備しているのが分かって、ハワイで何でそれができたのかっていう歴史的背景を全部学びたいっていうのでハワイにしたんです。

三木:ハワイ大学?

一原:ハワイ大学で最初大学院に行ったんです。そこでも色々ありまして、転入をしなくちゃいけないっていうのでボストンに…

三木:学部がなくなっちゃったんでしたっけ?

一原:今また元に戻って存続してるんですが、その時ちょうどアメリカの財政がうまくいかないっていうので先生が何人かカットされるっていうので、「卒業はできるけど大学院2年じゃなくて何年かかるか分からないよ」みたいに言われてしまって、「じゃあみんなで別の州に行こう」って言ってクラスメート半分ぐらいで一緒にボストンに編入をしたんです。

三木:すごい。ボストン大学?

一原:ブリッジウォーター州立大学っていうボストンから南に30分ぐらい行った田舎町のちっちゃい大学です。そこで残りの3学期を終わらせて、2011年に大学院修士を卒業しました。そこで同時にアメリカだと米国公認アスレティックトレーナーって言って、国家資格なのでそれがあるとそこからアメリカで働くことができる状況になるので、ひとまず2011年でそれを得て就職活動と。

三木:でも結構お金もかかりましたね。色々移動したりとか。

 

●アメリカのアメフトチームでのトレーナー時代

 一原:アメリカではその後独立リーグのプロのアメフトのチームが最初の仕事で…

三木:いきなりそういう現場に叩き込まれたみたいな(笑)。どうでした?最初の経験は。

一原:大学院を卒業すると1年間だけ働けるビザが下りるので、ビザの問題は1年間なかったので仕事さえ取れれば働けるっていう状態だったんですが、おそらく100以上エントリーシートを大学とかチームに出して、電話面接まで行ったのが4つです。

三木:そんなにやったんだ。すごい。

一原:もう声さえ掛からないんです。100通送っても4件しか「興味がある」って言ってもらえない。それはインターナショナルっていう面もありますし、どこまで英語ができて仕事ができるかが分からないっていうところもあるので、もうあと1ヵ月仕事が取れなかったら日本に帰国しなくちゃいけないっていう感じだったんですが、たまたま独立リーグのアメフトのトレーナーの人が声を掛けてくれて、ボストンの反対のカリフォルニアのチームだったので、「カリフォルニアに来れるんだったら契約してあげる」みたいな感じで言われて、もう僕は失うものは何もないのでホームステイさせてもらってるところに車とか物とか全部置いて体1つ行って、4ヵ月ぐらいチームとずっと帯同で最初のシーズンやって、終わったらまたボストンに帰って。

三木:取りあえず体1つで。すごい。最初のシーズンどうでした?

一原:そこはNFLっていうプロのアメフトのリーグにはずっといられなかった選手が流れ込んでくるマイナーリーグみたいなプロのアメフトで、僕のチームはほぼ7、8割黒人選手のチームで、監督さんも黒人の監督さんだったんです。その中には初めてのアジア人を見たっていう選手もいるぐらいで。

三木:すごい状況で行きましたね。

一原:そういうのを重ねてどんな状況に行っても対応できる術は習得できたのかなと思うんですが、とてもコミュニケーションが取りやすいチームで、初日行ってスキルでは色々できることを見せられるので、ある程度は信頼はしてもらえるんですが、最初の日にヘッドセットとミュージックがいっぱい入ったiPodを選手から渡されて、「これを聞け」と。中にラップとか彼らの大好きな曲が全部入ってるんです。「これを全部聞いてくれたら俺らはブラザーだ」って言うので、最初からそういうテンションで聞いて、「これいいね」って言いながらテープとか巻いてたりすると、彼らも「ああ、いいじゃないか」って言って受け入れ感が強まってきて。

宇都宮:ミュージックなんですか?お酒とかより…

一原:「この音楽どう思う?」とかそういう感じのところからで、そのチームはリーグ自体も新しくできたところだったので、ホテルに全員が住んで、その中にトレーニングルームを作って4ヵ月やるので、朝から晩までそこにいるわけです。食事の時も同じところでしますし、遠征だと飛行機に乗って別の州に行って支援をしたりとかっていうのがあるので。

宇都宮:ブラザー、ファミリーみたい。

一原:でもすごくそこの経験は良かったです。

三木:すごいインパクトがある。

 

●シアトル・マリナーズでのトレーナー時代

 一原:その時ってビザがあるので気にせずにできたんですが、もう終わりがあるのは分かってるので、働いてる時から次の就活をしないといけなくて、たまたま大学4年の時にインターンをシアトル・マリナーズっていうチームとサンディエゴ・パドレスっていうチーム2つやらせていただいたんですが、そのヘッドトレーナーにずっとその頃から連絡を取らせてもらってたんです。仕事も終わるし次のシーズンから「インターンでも何でもいいからやらせてください」っていうことで、すごく縁をいただいて、インターンっていうところからまず採用していただけたので、そのままその後はマリナーズで3シーズンやったという。

三木:3シーズンというと…?

一原:3年です。

三木:すごい幸運ですね。普通はマイナーのアメフトからいきなりそういうところに行けない。

一原:そうですね。

宇都宮:マリナーズはイチローがいたところですよね?

一原:そうですね。ちょうどヤンキースに移られる前の1年間はそこで同じ…

宇都宮:イチロー選手と一緒に居たんですか?

一原:キャンプの時はメジャーもマイナーも同じところでやるので、そういった意味では同じところでやってたんです。

三木:イチローさんのケアもされた?

一原:それはメジャーサイドに日本人トレーナーは別にいるので、僕はマイナーリーグのほうで逆に日本人は1人もいないです。日本人は関係なく雇ってもらえたので、半分ドミニカ、ベネズエラとかの選手で、半分アメリカ人みたいなところで3シーズン。

三木:そこでの経験はどうでしたか?

一原:そこも選手と一緒でだいたいアメリカだと8軍ぐらいまで1球団にあるんです。日本だと2軍、多くて3軍ぐらいまでしか持ってないんですが、8軍からベネズエラとかドミニカ入れたら10軍まで、全部で250人から300人ぐらいを1球団で抱えてるので、トレーナーもルーキーといわれる8軍からスタートなんです。仕事を評価されてポジションも空いてくれば1年ごとに上に上がって行く感じなので、メジャーリーグでトレーナーをするのは下から叩き上げで行くトレーナーにとってはそんなにスッとはできるものではなくて、10年やってても行けない人もいるような世界なので、僕は最初ルーキーボールっていう15、6歳から22歳ぐらいの若い子達を担当するトレーナーをやらせていただいて。そこでトレーナー兼生活指導係みたいな、野球のスキルはものすごく高いんですが、日常生活だとかどうやって身体を自分でメンテナンスしていくかみたいなところはまだ分からない子達が多いので、すごいトレーナーが介入する度合いが大きいのが下のカテゴリーなんです。上に行けば行くほどもう自分で自分のことはできるので、本当に必要な時だけトレーナーが手を貸すっていう。

三木:学校の先生みたいな感じ?

一原:そうですね。3年の間に1個1個上がっていくんですが、たまたまスポットが緊急事態的に行かなくちゃいけないとか色々出て、2年目4軍で、3年目2軍だったんです。だからメジャーと行き来するところに最終的には行けたので、マイナーリーグでも全部のカテゴリーをほぼ見れたのがすごい良かった。

三木:仕事を評価していただいたっていうことですね?

一原:どうなんですかね?少なくとも年更新なので、「いや~もうちょっとやってほしかった」っていうのがあれば契約更新にはならないという世界なので。

三木:厳しい世界ですね。

一原:はい。1年でどれだけ自分がこれができるよ、きっちりやってきたよっていうのを見せられるかどうかが次の年につながっていくので、3年できたっていうことはすごく良かったかなと。

三木:3年を経て帰国?

一原:2014年のシーズン2軍でやらせてもらって、年末に終わったので2015年の頭に帰って来たっていう形です。丸々4年ですね。

宇都宮:それは区切りっていう?

一原:そうですね。元々トレーナーになりたかったっていうところの安全な環境づくりを日本でやりたいっていうのが僕の一番最初のゴールだったので、そのためにハワイにも行ってどうやってやってるかを学んで持ち帰って来たいっていうのがあって、プロですごく良い経験をさせてもらって、プラス日本で安全っていうところを訴えかけるにはある程度のバックグラウンドだとか誰がそれを言っているっていうのがすごく重要になるっていうのを今一緒にNPOをやってる代表から渡米前から言われていて、「できるだけ上を見て帰って来なさい」と。

三木:色んな経験をしながら?

一原:そしたら日本で安全っていう面を啓蒙するっていう立場になった時も色んな人にある程度しっかり話ができるはずだっていうので、たまたまその年にマリナーズも来年度1チームなくなるのが決まっていたんです。結局同僚を含めて誰かが1人辞めなくちゃいけないっていう状況もあったので、それも良いタイミングだっていうので日本に戻ると。でも仕事は何も決まってないまま戻ることだけ決めて、後はそっちでどうするかっていう感じ。

宇都宮:まずは実家に転がり込む感じですか?

一原:まずは実家に転がり込んだんです。

宇都宮:どちら?東京?

一原:千葉の野田市っていうところです。

三木:その時はおいくつでした?

一原:その時は31です。

三木:まだ35?

一原:僕35です。こう見えても35です。

三木:45じゃなくて(笑)?

一原:35です(笑)。

三木:貫禄ありますね。

宇都宮:年上に見られるっていう(笑)。

後編に続きます。

一原克裕さん
https://www.facebook.com/katsuhiro.ichihara

WEBSITE
https://www.aligne.me/

 

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